俺は槍杉ディルという。ケルト商事に勤めるごく普通のサラリーマンだ。
5年前に妻であるケイネスと結婚し、今は小さな団地でささやかながらも幸せな生活を送っている。
妻は大学の教授をしており共働きである。理知的で可愛らしい妻は私と結婚したことを『気の迷いだ』といつも言うが、それが彼の照れ隠しであると知っている。
5年経っても彼への愛は変わらず、一層増していくようだ。俺はこの世の春を満喫していた……ほんの数ヶ月前までは。
「おはようございます、奥さん」
夫婦揃って出勤するために玄関を開けた先には、朝から胸焼けしそうな濃い顔。妻は『お前もさして変わらんぞ』と言うが、一緒にしないで欲しい。
この男は剣崎といい、去年の秋頃うちの隣に引っ越してきた男だ。
新参ながらも自前の愛想の良さと強引さですっかり団地の奥様方(俺の妻を除く)を虜にしてしまった。恐らく今最も団地の夫連中に恨まれている男だろう。
「あぁ、槍杉さんもいらしたんですね。おはようございます」
妻の後ろから睨み付けると、わざとらしく今気付いたとばかりに笑顔で付け足す様が憎らしい。
毎日一緒に出勤しているのだ、居ないわけがないだろう。
どうやらこの剣崎という男は並み居る団地の奥様方の中でも俺の妻を気に入ったらしく、俺の存在などお構いなしに気安く話し掛けてくる。
それだけならまだしも、毎朝俺が楽しみにしている駅までプチデート(と俺は呼んでいる)にまで、出勤時間が一緒だからとこうして割り込んでくる始末だ。
「おはよう剣崎、今日は朝食を抜いてきていないだろうな」
「はは、大丈夫ですよ。しっかり白米で頂きました」
しかも肝心の妻がそれを嫌がっていないどころか段々仲良くなっているのがまた腹が立つ……!
俺があからさまに嫉妬すると妻に『馬鹿かお前は』という顔で呆れられてしまうので(それも御褒美ではあるのだが)必死に堪えて剣崎を目で殺しそうな勢いで睨み付けるだけに留める。幸せな筈の朝の日課はここのところ苦行だ。
「そういえばこの間の件、考えてくれましたか」
「そうだな……金曜の夜なら予定が空いている」
「な……っ?!何を……何をする気だ貴様!!」
まるで本当のデートの約束でもするような会話に思わず剣崎の襟首を掴む。しかし先に答えたのは妻だった。
「あぁ、この間夕飯を一緒にどうかと誘われてな」
「槍杉さんに言ってなかったんですか」
「言うほどの事でもないだろう」
「ことです!!」
涙目で力一杯言えば、妻はため息を吐く。
「分かった分かった、今言った。お前も金曜の夜忘れるなよ」
「えっ」
「せっかくお隣で歳も近いのですから、親睦会させて頂きたくて」
「えっ」
「剣崎はお前と友人になりたいそうだ。友人がいない同士仲良くしてやれ」
「え……」
剣崎を見れば、照れてはにかんだ。妻の顔ではないのでピクリとも心は動かないが、安堵に肩の力が抜ける。
だが私の妻は大変愛らしい。こいつがいつ変な気を起こさないとも限らない。牽制をかけるために相手を知るのも戦法の一つ……か。
「食事くらいなら、まあ」
剣崎の襟から手を離して言えば、剣崎は子供のように喜んだのだった。
* * * * *
剣ディル君は真実槍ディル君とお友達になりたいだけだが、機会があれば悪気なくNTRされるので槍ディル君の対応は間違っていない。
という裏設定を抱えつつもほのぼので書きました。
ご……匿名希望さんお題ありがとう!